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風次郎の『八ヶ岳山麓通信』No92

  
八ヶ岳 秋
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                    秋(弟逝く)
                                                     風次郎
                                                  fuujiro@jcom.home.ne.jp
            

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美しい秋が時を刻んでいる。
 穏やかに晴れた一週間だった。日曜日からずっと青空の広がる日がつづき、
夕刻からの星空も、又夜半から登る月も美しい毎日であった。
 そして11月5日金曜日の曙。東南の中空に、ひときわ大きく輝くあけの明星
“金星”に、ここ数日接近を続けている、その光には及ばぬがこちらも明るい惑
星“木星”が、重なってしまうくらい接近すると聞いていた。
 はたして、澄みきってやまなみ沿いに広がる空は、暗闇が解けてばら色に染まり、
接近しきった二つの兄弟星は、やがて来る陽光によって見失われまいと懸命
に光を放っているようだった。

 八ヶ岳が見える弟の墓碑の前で、私はその兄弟星をじっと眺めて過ごした。
 いつものように光の小さい木星が消え、やがて金星が消え、八ヶ岳を覆う空は
真っ赤な朝焼けとなった。
 山々の鮮やかな紅葉の彩に加えて、一週間つづいたこの秋の青空は弟への
天の贈り物のように思えた。

 10月30日の夜半、正確には31日の早朝、不幸の弟は逝った。
 弟と私は満州で生まれ、終戦の年の8月、山陰の名も知れぬ港に母に連れられた
家族共々引き上げて、本土の土を踏んだ。弟1歳、私3歳。
 その旅の灼熱の船室で高熱を患った幼少の弟は、何の手当ても与えられぬまま
母の腕の中だけを頼りに、混乱の中の旅を余儀なくされたのであった。そしてそ
の禍根は彼の青年期に影響を与えることとなり、22歳の発病以来38年におよぶ
闘病生活をおくることとなったのである。
 息を引き取った病院に移った1年あまり前、まだ歩けた彼と病院のベランダに出て
一緒に諏訪湖を眺めたことがあった。
 夏の夕暮れは風が優しい。なめらかに白んだ湖面と山影を映す湖面の接点を、
沈む夕陽が次第に赤く染めていった。美しくはあったが、寂しさをまぎらわして
いるのか、増幅させているのかわからない夕暮れだった。
 言葉を発することの出来ない弟に、
「何時か諏訪湖端まで一緒に行ってみようか!」と、
可能性のない嘘を言って顔を見合わせた時があった。
 それから過ぎた時は短かった。

 暑かった今年の夏、8月の終わり。歩くこともベッドから起きあがることさえも
許されなくなって、最後は点滴だけの4週間。私にとっても、毎日の見舞いは
“会うのはこれで最後だよ!”と心中で呟いて病室を出るつらい毎日だった。
 本当の別れとなってしまった29日の夕刻、
 「お前、頭の毛が増えてきたようだよ。俺のほうが薄いや。」と言うと、顔を
崩して笑った彼の顔が最後の思い出になってしまった。
笑えるようになったのは持ち直したのかと
ほんの少し心を軽くして病室を出たのだが。

 今日、彼が逝って七日を数える。今日も暖かく穏やかな日であった。 合掌

                             (風次郎)
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