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風次郎の『八ヶ岳山麓通信』 No253
前宮「十間廊」 神が湖上を渡った足跡との神話が伝わる諏訪湖の「御神渡」
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諏訪大社孝(4)神事、諸説、秘話
「御頭祭(おんとうさい)」
諏訪大社(上社本宮)には御柱祭と同様に重要な「御頭祭(おんとうさい)」という毎年
春に行われる例祭がある。
一種の謝肉祭のようなもので、かつては75頭もの鹿の生首や、鳥獣のたぐいを串刺しにし
たものを神前に供えていたという。(現在は鹿肉と、剥製のシカの首で代用)
しかし、この例祭は遡ると諏訪神社上社の祭祀が隆盛を極めた鎌倉時代に至る。
その頃、旧暦3月の初午から13日間をかけて行われた「春祭」では、期間中、大祝の代理
である神使(おこう)が「外縣(ととあがた)・大縣(おあがた)・内縣」と別れて、遠近
在の各地を巡回し廻湛神事を行っていた。
この神事は、四頭ある御頭(鹿の頭)の一つ「神使御頭」が遂行し、信濃国中の神氏およ
び上社の五官と諏訪十郷が奉仕していた。しかし、鎌倉北条の滅亡と続く戦乱で、神事は有
名無実と廃れていった。
江戸時代に入り、慶長19年(1614)、高島藩主諏訪頼水は、この神事を再興するために、諏
訪郡内を組み分けして「御頭郷」を制定し、藩内の御頭郷が輪番で祭礼に奉仕するようには
かったのであった。
すでに神使の廻湛は廃絶されていたので、酉日の大御立座(おおみたちまし)神事のみが
行われ、これが今で言う「御頭祭・酉の祭」として伝わっているのである。
明治以降、御頭祭では、御霊代を神輿に乗せて“一日遷座”をする方式に替わって続いて
る。神輿は、茅野市泉野の「中道(なかみち)」と「槻木(つきのき)」両区の氏子が担ぐ
のが慣例であるが、その衣装は何故かとても目立つ「黄丁」である。
前宮に到着した神輿は、十間廊という建物の上段の間に安置される。神輿(御霊代)は大祝
の代役ということになるとのことである。
江戸時代中期の文献には、「上段の間(拝殿)中央に高麗縁(こうらいべり)の菰(こも)
畳に鹿皮が敷かれ、その上に大祝が着座し、左には太刀持ちが控え、前には鹿頭を載せた俎
板が5枚横一列に置かれた」と書かれているという。
いまの神事は、その古式に倣い、本宮から1.5キロ離れたこの前宮十間廊に本宮司が出
向いて五穀豊穣を祈願するのである。
ただ、御頭祭は諏訪大社固有の祭りで他には例を見ない。
さて、神宮寺部落に在る守矢資料館には大きな壁に、昔の御頭祭のとき神に捧げられたと
言われる「鹿の頭75頭」が掲げられている。
明治以前この御頭祭は、諏訪大社の御神体である守屋山上で行なわれたという。
神事は、柱に縛られた幼い子供が生贄に捧げられ、神官が子供に刃物を振り上げる、と次
の瞬間別の神官があらわれて子供を解放、そしてかわりに鹿の頭75頭分をその身代わりと
して捧げるという祀りだったとの説は資料で充分である。
ところが、これは旧約聖書創世記第22章アブラハムとイサク(その子)の伝承と極めて
類似している。「アブラハムは息子イサクを連れて丘へ行き生贄にしようとした。すると神
の使いが現れてアブラハムを止め、そして息子の身代わりに羊を捧げた」とある。その場所
はモリヤの地だったのである。
モリヤはエルサレムの中心、墳墓教会、いわゆるアクサのモスク・岩の堂のあたりである。
前宮「十間廊」の不思議
古代イスラエルで祈祷所に使われた幕屋といわれる建物はエルサレムのモリヤに設けられ、
その大きさは東西18m、南北5.4mである。入り口を東とし、西側に本(拝)殿を構え
た。御頭祭の行われる前宮「十間廊」はこれと全く同じなのである。
古代イスラエルのメジャーは1キュビット=44cm、日本の1間は丁度4キュビットの
長さであるから、尺貫法のルーツはイスラエルかも知れない。
守屋山上で行われた御頭祭は今は春の祭りとして「十間廊」で行われているが、エルサレ
ムとの因縁を考えざるを得ないように思う。
また、先に書いた御柱祭(大木を山から切り出し、社殿まで運ぶ行事)に類似の行事が古
代イスラエルでも行われていたことも聖書に書かれている。
旧約聖書列王紀上第6章には「ソロモン神殿を造るとき大木をレバノンからエルサレムま
で運んだ」と。木の柱を崇拝する考えはその時代から木には神が宿るとの信仰があり、その
神の名は「アシラ」=(古代イスラエルの女神の名⇒日本語の柱(はしら)のルーツ)雅楽、
相撲、京都文化など、ヘブライからの流れは日本古代史の中に生きていると言わざるを得な
い。
諏訪湖の御神渡り
冬期に諏訪湖の湖面が全面氷結し、氷の厚さが一定に達すると湖面の氷が昼夜の気温差に
応じて膨張と収縮する為、昼間の気温上昇で氷がゆるむ。また、気温が下降する夜間に氷が
成長するため「膨張」し湖面の面積では足りなくなって、大音響とともに湖面上に氷の亀裂
が走りせりあがる。
この自然現象は御神渡り(おみわたり)と呼ばれ、昭和53(1978)年1月17日諏訪市無形
民俗文化財に指定された。
諏訪大社にはこれを神が湖上を渡った足跡との神話があり、諏訪大社の上社を男神、下社
を女神と見立て、諏訪湖が全面結氷すると両者が逢引し合って渡るとの伝説がある。
御神渡りが現れた年の冬には神事が八剱神社(八剣(剱・劔・劍)神社(はっけんじんじ
ゃ / やつるぎじんじゃ)または、八剣(劔)社( =はっけんしゃ / やつるぎしゃ=も北海
道を除く全国に広がる)=その名の通り8本の剣を神体あるいは祭神とするもののほか、素
戔嗚尊、大国主神、日本武尊を祭神とするものなど様々ある。=日本古来の信仰を集める神
社)の神官により諏訪湖畔で執り行われる。
御渡り神事では、亀裂の入り方などを御渡帳(みわたりちょう)などと照らし、その年の
天候、農作物の豊作・凶作を占い、世相を予想する拝観式が行われている。
御神渡りは湖が全面結氷し、かつ氷の厚みが十分にないと発生しないので、湖上を歩ける
か否かは目安の一つとなる。ただし氷の厚さは均一でなく、実際に氷の上を歩くのは危険を
ともなう行為である。
平安末期に編纂された歌集『山家集』に
春を待つ諏訪のわたりもあるものをいつを限にすべきつららぞ
と、記されていること、1397年に室町時代に諏訪神社が幕府へ報告した文書の控え『御渡注
進状扣』に「当大明神御渡ノ事」とあることから、古くは平安時代末期頃には呼称があった
とされる。
諏訪地方では、諏訪大社が「諏訪大明神」・「諏訪神」と仰がれ、原始的な自然信仰の対
象であった。古代の神社信仰は産土神であることから、自然現象への信仰は神社を特定して
いないのかも知れない。伝説として好ましいように思う。
又、新約聖書マタイによる福音書第14章にはガラリヤ湖を舟で渡る弟子たちのもとにイエ
ス・キリストが水の上を歩いて来たとある。「御頭祭」や前宮「十間廊」に伝わる不思議な
伝承からすれば、あながち7世紀頃イスラエルの民が日本にわたってきて、それが諏訪の地
にも及び民族の信仰を維持したことも推測ができる。
ヘブライからのルーツを辿る
ヘブライの世界は紀元前13世紀頃から地中海東岸に栄え、紀元前1021年頃にはヤハ
ウェ信仰を基にイスラエル王国(ユダヤ人=「ユダヤ」とは元来、ユダ王国のあったパレス
チナ南部を指す)が建設されたのであった。
ユダヤ人は、紀元前1000年ごろと推定されるダビデ王の時代には、推定 500万の人口を持
っていたとされる。ちなみに、同時代の世界人口は約5000万人、縄文時代だった日本列島の
人口は推定で10数万である。ソロモン王の死後の紀元前 926年頃、国は北のイスラエル王国
と南のユダ王国に分裂した。しかし、北のイスラエル王国は紀元前 721年にアッシリアによ
って滅ぼされ(失われた十支族と言われる)失われた十支族の行方は解明されていない。
聖書外典第四エズラ書には「その群衆は十支族あった。彼らにはユーフラティスの辺から
一年半という長い道程が待っていた。そこはアルツァレト(最も遠い意)という地方だった」
との記載があるのみである。
≪南のユダ王国は、紀元前 609年にメギドの戦いでエジプトに敗北し、エジプトの支配下
に入ったが、紀元前 606年にカルケミシュの戦いでエジプトが新バビロニアに敗れると、紀
元前 587年には新バビロニアの侵攻に会い(エルサレム包囲戦 =紀元前587年)、翌年には
ユダ王国が滅亡してエフドが置かれ、多くの人民が奴隷としてバビロンに囚われることにな
る (バビロン捕囚)。彼らはユダ王国の遺民という意味でユダヤ人と呼ばれるようになった
のである。≫
ここに出てくる十支族の足跡が近年イスラエルの教徒によって研究追及されつつあり、日
本にも調査の手は及んでいる。
彼等はシルクロードを辿ってアフガニスタン、カザフスタン、パキスタン、インド、ミヤ
ンマー、中国、他にはエチオピアやペルーなどにも及んでいるという。実にミヤンマーのシ
ルシン族は十支族中のマナセ族であることが判明しイスラエルに呼び戻されている。
当然ながら中国、朝鮮を経由して日本に至ったであろうことは解明されつつあり、日本古
代史に影響を与えたであろうことが考えられている。
「新撰姓氏録」には「弓月の国の王が 127県の民を引き連れてやって来て天皇に絹を献上
した」事が記されているが、この伝えを受け継ぐのが聖徳大使の側近であった秦河勝(はた
のかわかつ)を中心人物とする秦氏(はたうじ)であった。
現今に至っても日本の雅楽を仕切っている一族の居住した太秦(うずまさ=ヘブライ語で
光の賜の意)の地名は京都には残る。秦一族は広隆寺、伏見稲荷を建設、また同一族が建立
した木嶋(このしま)神社にはキリスト教(ユダヤ教)の影響を大きく受けている事が多い。
藤原京、大和京からの平安奠都も、ガラリア湖とエルサレムの地勢に類似した琵琶湖との
方位から京都が選ばれたとの説まである。
何故か諏訪大社「十間廊」も諏訪湖の南に位置しているのだが――。
イスラエル大使は着任すると諏訪の地を訪れると言う。
(完)
風次郎
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