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風次郎の『八ヶ岳山麓通信』 No251
諏訪大社上社拝殿 諏訪大社前宮本殿 (何れも諏訪大社HPから)
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諏訪大社孝(2)諏訪大社の由来
諏訪大社の名前は北海道にはないようだが日本全国に広がっている。文献を紐解くと『古
事記』『先代旧事本紀』に記述がある。
天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、武甕槌命(たけみかづちの
みこと)が大国主命に国譲りするように迫ったとされる。これに対して、大国主命の次男で
ある建御名方命が国譲りに反対し、武甕槌命に相撲を挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れ
た。そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされる。
説話には社を営んだことまでは記されていないが、当社の起源はこの神話にあるといわれ
ている。その時「結界」として神社の四隅を仕切った、という伝えが、地鎮祭の神話的発端
とも考えられている。諏訪から他の土地へ出ないとの誓いは今解せない。
祭祀が始まった時期は不詳である。
文献上は『日本書紀』の持統天皇5年(691年)8月に「信濃須波」の神を祀るというのが初見
の由、平安時代の『日本三代実録』には「建御名方富命神社」、『左経記』には「須波社」と記
載されている。また『延喜式神名帳』では「信濃国諏訪郡 南方刀美神社二座 名神大」と記載
され名神大社に列しており、この二座が上社・下社を指すとされる。
古くから軍神として崇敬され、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に戦勝祈願をしたと伝えられて
いる。
平安時代末期には平頼盛領となっており、鎌倉時代になると平家没官領として源頼朝に給
付された。頼朝は神馬を奉納し、信濃御家人に諏訪大社への神役勤仕(しんやくごんじ)を
徹底させ、大祝に従うべきことを命じた。この頃には「諏訪社」の表記が見られ、また「上
宮」・「上社」の記載もある。治承4年(1180年)が上下社の区別が明示されている初見と
される。
他の神社同様、当社も神仏習合により上社・下社に神宮寺が設けられて別当寺(神社を管
理する寺)となり、上社は普賢菩薩・下社は千手観音が本地仏とされた。
建暦2年(1212年 )、幕府は諸国の守護・地頭に鷹狩禁止令を出したが、諏訪大明神の「
神御贄鷹」については例外的に許可している。
毎年恒例の五月会や上社南方の御射山(縄文時代大集落の栄えた地域)で行われた御射山
祭には鎌倉を始め甲斐・信濃など周辺の武士が参加した。それに加えて、軍神としての武士
からの崇敬や諏訪氏の鎌倉・京都への出仕により、今日に見る諏訪信仰の全国への広まりが
形成されたのである。また、諏訪両社においても大祝を中心として武士団化が進み、両社間
で争いも多かったと伝わる。
戦国時代に甲斐国の武田氏と諏訪氏は同盟関係にあったが、天文11年には手切れとなり、
武田信玄による諏訪侵攻が行われ、諏訪地方は武田領国化される。信玄によって永禄8年(
1565年)から翌年にかけて上社・下社の祭祀の再興が図られた。信玄からの崇敬は強く、戦
時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に諏訪法性兜をかぶって出陣したと伝
えられる。
江戸時代に入り、江戸幕府第3代将軍徳川家光によって上社に朱印1,000石・下社に500石
が安堵された。また高島藩(諏訪藩)から上社50石(のち100石)・下社30石(のち60石)、
会津藩主・保科正之(徳川秀忠の側室お静の子7歳で高遠藩保科正光の養子として預けられ
ていた)から上社100石・下社50石が寄進された。
明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に列し「諏訪神社」を正式名称とした。
その後、明治29年(1896年)に官幣中社、大正5年(1916年)に官幣大社と昇格した。
戦後は神社本庁の別表神社の一社となり、昭和 23年(1948年)から他の諏訪神社と区別
する必要等により「諏訪大社」の号が用いられている。
諏訪大社は諏訪湖を挟んで、二社四宮の境内が鎮座している。
上社は諏訪湖南岸、下社は北岸に位置し遠く離れているため、実質的には別の神社となっ
ているが、「上社・下社」社格に序列はない。
当社全体で祀る主祭神は前記した以下の2柱。両神とも上社・下社で祀られているのであ
る。
建御名方神 (たけみなかたのかみ)
上社本宮祭神。『古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主命の御子神と
して登場する。母は沼河比売(奴奈川姫)とされる。『先代旧事本紀』には建御名方神が信
濃国諏方郡の諏方神社に鎮座すると明示されている。
八坂刀売神 (やさかとめのかみ)
上社前宮・下社主祭神。建御名方神の妃。
上社 (かみしゃ) 本宮 (ほんみや)は(長野県諏訪市中洲宮山)に、前宮 (まえみや)は(長
野県茅野市宮川)に、
下社 (しもしゃ) 秋宮 (あきみや)は(長野県諏訪郡下諏訪町武居)に、春宮 (はるみや)は
(長野県諏訪郡下諏訪町下ノ原)に在る。
なお、本来の祭神は出雲系の建御名方ではなくミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チ
カト神、石木の神モレヤ神などの諏訪地方の土着の神々であるという説もある。
現在は神性が習合・混同されているため全てミシャグチか建御名方として扱われることが
多く、区別されることは非常に稀であるが、神事や祭祀は今なおそのほとんどが土着信仰に
関わるものであるともされる。
八幡神や住吉三神など他の信仰にも見られるように個々の祭神が意識される事は少なく、
まとめて「諏訪大明神」・「諏訪神」として扱われる事が多い。
諸説の中にはユダヤ教からの伝来に関するものもあり、八ヶ岳山麓が古代温暖だった時代
(縄文期)日本の中心的集落地であったことから、大陸から渡来した文化の名残探索の根拠
としての説がある。
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上社前宮は、古くは上社摂社であった関係で本殿を有しているものの、それ以外は拝殿の
み。上社本宮は拝殿後背林(通称御山)、下社秋宮はイチイの神木、下社春宮はスギの神木
を神体とし、拝殿からそれらを拝する、といった古い形の自然信仰を踏襲するものである。
これは関西だと、奈良にある大神神社(背後の三輪山をご神体として崇める)や熊野神宮と
同じで、原始的な信仰に基づく神社の原型と言われる。
旧宝殿 (本宮近くの大国主命社)
当社には本殿が設けられていない。本殿がない代わりに本宮・秋宮・春宮には、2つの宝殿
がある。宝殿の一方には神輿が納められ、寅と申の年の御柱祭で御柱建て替えと同時に一方
へ遷座し、古い宝殿は建て替えられる。すなわち1つの宝殿は12年ごとに建て替えられ、神明
造に似た古い様式を現在に伝えている。
寅年から申年の間、神輿は向かって右の宝殿に納められる(申年から翌寅年は逆)。神輿
の納められる宝殿は「神殿」と呼ばれて祭祀が行われ、もう一方は「権殿」と呼ばれる。
このように宝殿は一般の本殿にあたると解され、神社に本殿が設けられる過渡期の状態と
考えられている。
宝殿を含め当社の社殿は華美な装飾・塗装はなされず、全て素木造である。
風次郎
諏訪大社下社秋宮 諏訪大社下社春宮 (何れも諏訪大社HPから)
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