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風次郎の『八ヶ岳山麓通信』&『東京センス』
No166
ひまわり
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2006年8月16日
1998年初秋のこと
風次郎
fuujiro@jcom.home.ne.jp
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お盆を南天寮で過ごしている。
お盆は先祖を迎えて、親しくゆっくり過ごすときだ。
今年も親族や知人の出入りがあって和やかなお盆を過ごすことができた。
天気も良かった。この暑さがすぎれば、高原は急速に秋の気配を漂わせるのだろうか。
静かになったので机を整理していたら、母の葬儀のあとの書き残しが出てきた。
お盆が過ぎるとどこと無く寂しくなる。
―――――
1998年初秋
母が逝った。
駆けつけて静かな穏やかな顔を見たときはホッとした。
苦しくて寂しい顔をしているかと思っていたから――。
トイレへ行って、自室に戻り布団のそばにうずくまる最後であったようだ。
心臓の発作を、前に臥せって受け止めていた最後の姿であったと言う。
○
夏の陽は薄雲って柔らかく、今年の夏は梅雨明けも知らずじめじめと続いて、
からりと晴れない夏だった。
母の好きなオイランソウやキキョウの花も咲いてはいたが、
そういった紫の花は数が少なく、かわりにキクイモやヒマワリなどが
群生しているように黄色を目立たせて咲き、
強烈な暑さを思わせる夏の庭だった。
そんな庭を母も時々じっと眺めていたことがあった。
つい2週間ほど前お盆の数日が、
私にとって母と一緒に過ごした最後のときだった。
そういえばお盆を迎えるにあたって、
「おれがつくってある萱で盆飾りのすだれを作れ」と朝からせかされたし、
「キュウリの馬は作ったか」「ナスの馬はまだか」
と何回もうわ言のように催促されたのは、
何か予兆か予言であったようにも思われる。
「萱を作る」などとこのために植えたのではあろうが、
とってつけたような言い方でもある。
私は、
「指図はするな!」と頑張り、「ハイハイ」と素直に聴いてやらなかったことを
今、後悔する。
あの頃、母の体はより不自由さを増して、
なにかをしたくてもできない歯がゆさがつのっていたのであろう。
お盆の14日の晩、母は風呂に入った。
自分一人で入ると言い、脱衣も着衣も手伝わせなかったほど気丈夫さを
見せていたように思えた。
細った体が、とても哀れで気になり、抱えて入れてやろうとしたが
聞き入れなかった。
「飯を炊いて食わせるのはおれの仕事」と母が言ったことがあった。
そのことを思い出すたびに、
飯を食うこととは生きていくことか――、と生命を意識する。
母が家族を育てていくことを意識していたのであろう。
母と最後の飯をお盆に食べた。母が仕かけてくれた飯だった。
私が、母の仕かけてくれた飯を食べたのはその14日の夕と15日の朝。
13日に炊いて残っいた炊飯器のものはお昼に2人で戴いた。
不自由な体でもお勝手の流し台には毎日立っていた。
私は14日の早朝、夜明け前から八ヶ岳に登った。
明け方は雨が降っていて足場が良くないかなと思ったが、天気予報は上り坂。
当時お盆の八ヶ岳行は私には恒例であった。
美濃戸山荘に車を預け、赤岳鉱泉から硫黄、横岳、赤岳、阿弥陀岳を歩いて
行者小屋に下りるのである。
3時に家を出れば、午後1時30分には家に戻れる。
山は稜線に辿り着いた頃晴れ上がり、雨上がりの山肌がくっきりと映えて、
清々しい歩行を楽しむことができた。
母が、その八ヶ岳から帰る私を待って、
朝から何も食べていなかったのは何故だったのだろう。
そして食事をしたら両手を合わせて「ごちそうさまでした。」と言ったのは
何故だろう。
私が、
「自分で食べれるのに、ちゃんと朝飯ぐらい食べなければ」
と不機嫌に振舞ったからだろうか。
せっかく息子が来ているのに雨の中を山へ行ってしまい、
一人は寂しかったのだろうか。
唯でさえ食欲は無かったのだ。
今思えば、あんな丁寧な手の合わせ方をしたことは無かったように思う。
私は、山帰りの心地よい疲れに促されて、母と共にお盆の日の午睡に浸った。
○
母とは17日の朝別れて東京に戻った。
いつもは帰り際玄関の外まで顔を出したのだが、
不自由が増したからと、玄関の中で手を振っていた。
それが別れのときになるとは思わなかった。
そして、およそ2週間。8月最後の土曜日の朝、
介護に行っていた姉からの電話で母の死を知る。
丁度姉が家に居たときでよかった。私も自宅にいてよかった。
私は11時半に富士見の家に着いた。
母の姿はすでに死化粧を施され、ハンカチで顔を覆って床の上にあった。
近くに住む親族達が枕元に見舞ってくれているところだった。
私もただ膝まづき、頭を下げて無言で母と対面した。
93歳になる本家の頭首が、すでに来てくれていて、
慰めてくれたのが痛く心に滲みた。
こみ上げてくるものがあった。
雨が降っていた。
その日は母の棺を部屋の真ん中に置いて、
兄弟と共に線香を絶やさぬよう番をした。
折からの台風がもたらす雨が次第に激しくなり、
翌日、葬儀の当日は大雨になってしまった。
鉄道も、中央高速道も不通になってしまい、葬儀に来れなくなった人が出る始末だった。
私達の悲しみが、何か台風と因縁をもっているかのようでもあった。
そして、葬儀の翌日は台風も去り、
月の変わった9月1日の早朝は紛れも無い星空を見た。
夏が終わった。
母は85歳だった。
―――――
しかし、翌週の9月7日夕刻、母の葬儀を仕切った本家の頭首(父の兄)
が93歳で逝ってしまうとは思わなかった。悲しみは重く重なった。
その夏は、凄い勢いで去っていった。
風次郎
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