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風次郎の『八ヶ岳山麓通信』&『東京センス』
No150
風次郎の益子(狸)、備前(徳利・猪口)、萩(ぐい飲み)
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2006年1月14日
人間国宝展
風次郎
fuujiro@jcom.home.ne.jp
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高島屋(日本橋)で開かれた「人間国宝展」を見に行った。
陶芸、染織、漆芸、金工、竹工、人形、和紙、截金(きりかね)、撥鏤(ばち
る)と多岐にわたる無形文化財から、とくに重要なものを160点紹介していた。
昭和30年に制度が始まって以来、工芸技術の部では149名が認定され、
うち56名が現役で活躍中とのことである。見る目もなく感受性も乏しいと思
いつつ、それでも静かに1点1点を眺めていると、ジワッと良さらしきものが
伝わってくる。陶芸の浜田庄司(民芸陶器)、酒井田柿右衛門(色絵磁器)、
鈴木蔵(志野)、三輪壽雪(萩焼)などにはごく少々の馴染みがあるが、他は
国宝として対峙するのは始めてである。案内の紹介に、「日本人の美意識を具
現した名品の数々をご観覧下さい」とあるので、雰囲気を感じることが出来れ
ばありがたいと出掛けたが、さすがに昇華された芸術の粋は凄い。無知な者へ
さえ憧れを伝えるだけでなく、作家の剥き出しの鼓動を伝えられるものが多か
った。もはやこの域は「風」とは言えない。「鼓動」と言うべきであろう。
陶芸を中心に見た。
現役の頃、宇都宮に縁があり、それが益子に時々通うきっかけになった。益
子の焼き物は庶民の使う物として広く親しまれた「色濃い釉茶色」がベースで
ある。梅を漬ける壷、狸の置物、それらの持つ田舎じみたものが懐かしくて通
っているうちに、たくさんの窯元が新しい芸術に胸を膨らませていることを知
った。当然のことと言え、時とともにそれぞれの店に並ぶ作品のニュアンスが
変化していくのであり、私はいつしかそれを見ることが楽しみになった。浜田
庄司を識ったのはそれからすぐで、そのときは、今や益子も民芸をはなれたか、
と思ったものである。
人の美を見ること、追求すること、浸ることにはきりがない。
風景を見て「いいなあ!」「美しいなあ!」と感ずるだけが純でいいとも思
う。しかしそこに風が流れ、人がいて、なにか「鼓動」が感じられるのがいい、
と思うようになったのは陶芸に少々の興味を擁く機会があってからのことだ。
備前を見、萩を見たのは一年前である。それぞれそこには位(くらい)を重
んずる武士の「風」があった。備前にある鋭さは、萩や益子にはない。同じ武
士の「風」でも萩にある文人的品位は備前にも益子にもない。益子の持つ田舎
くささは備前や萩にはむしろ近づいてはならないもののような気がする。
展示会ではそれらが一堂に集められ、ときには異様な雰囲気を味わうものだ。
しかし、さすがに国宝と言われる作品の並ぶ会場にはそういったものは感じ
られなかった。
単に陶芸ばかりではない。色による図柄やデザインを命とする作品や、機能
が昇華して芸術の域に達した刀剣にいたるまで並べられた今回の会場には、相
当数の観覧者が入っていたにもかかわらず落ち着きが漂っていた。
何故だろうか。何故私はそう感じたのだろうか。
すべての作品に含まれたものは複雑、精密であろうことが察せられた。そし
て表面を如実に見ることが出来るものは、まさに繊細そのものであると思った。
しかし、一歩退いてそこに目をやれば、そのイメージは単純化、単一化され
ているではないか。作品全体が単一化されて多くを求めてはいない―――――。
大胆かつ細心とはこういったものなのか、と思わざるを得なかった。素朴と
言う表現もここでは通用しそうにない。
おそらく作家が伝えたいものは、イメージでも思想でもなく、その作品が秘
めて持つ「鼓動」であろう。
そんな刺激を味わいながら、都心の宵の中へ流れでた。
こちらは風そのものでしかない、大いに圧倒された感があった。
「私には心臓の鼓動しかない」と呟きながら正月の街にまぎれこんでしまった。
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