☆☆☆

風次郎の世界旅
 ロシアの旅
(10)

music by MUSIC CAFE

         
              雀が丘展望台から中央競技場と市街遠景    

           10.モスクワ観光―1― 

                  レニングラード大通りを南下してサドーヴォエ環状通りへ入り、市街地の南西に至ると、到着し
                 たのは首都モスクワ市街地を一望できる雀ヶ丘であった。

                  雀が丘
                  モスクワ川が大きく蛇行する位置の高台は、ロシア語名ボロビヨーブイ・ゴールイの一部で、モス
                 クワ大学が背後に構えるように立っている市の展望台である。1924〜91年までは、革命家レーニンに
                 ちなみ「レーニン丘」と呼ばれた由である。
                  スターリンはニューヨークの高層ビルに対抗意識を持ち、スターリン様式という高く厳めしい建物
                 (モスクワ大学もその一つ)を多く建築したと、ガイドのワシムさんが特異なビルを幾つか指さしな
                 がら話してくれた。
                  ロシアの最高学府モスクワ大学を背にして眺める眼下には、1980年のモスクワオリンピックでメイ
                 ンスタジアムとなった中央競技場が、右手にはスキーのジャンプ台が見えた。一帯は今市民のスポー
                 ツと憩いの公園のようである。
                  川岸より高さ60〜70メートル高い展望台から見るモスクワ市のパノラマ景観に引き寄せられた観光
                 客ばかりではなく、市民の新婚カップルが友人たちと連れだって記念撮影に興じていた。只、丁度バ
                 イク愛好者の大集団が結集しており、何処の国にもあるが、その騒然とした様は戴けないと思った。

                  モスクワの街を眺める  
                  モスクワは、中央にあるクレムリンから同心円状に広がっている町であり、クレムリンからはすべ
                 ての方角に放射状に幹線道路が延びているのが良く分かった。その幹線道路をつないでプリヴァール
                 環状道路、サドヴォエ環状道路、モスクワ環状道路(大環状道路)の3つの環状道路がある。モスク
                 ワ地下鉄環状線とほぼ同じ場所を走るサドヴォエ環状道路は、1590年代に建設された市の土塁の
                 跡に作られたものだ。
                  クレムリンは1156年にユーリー・ドルゴルーキーが砦を築いて以来一貫してモスクワの中心であり、
                 モスクワ大公国時代からロシア帝国初期を通じて王宮がおかれていた。ソヴィエト連邦成立後はここ
                 に政府が置かれ、現在もロシア連邦の大統領府があるロシア政治の中枢である。
                  クレムリンの正面には赤の広場が広がり、広場周辺にはグム百貨店や聖ワシリイ大聖堂、レーニン
                 廟がある。広場の北東はキタイ・ゴロドと呼ばれ、モスクワ大公国時代からの商工業地域だったとこ
                 ろで、現在では都心の一部となっており、その北にはかつて KGBの本部の置かれていたルビャンカ
                 や、ボリショイ劇場などがある。
                  クレムリンから北西に伸びるトヴェルスカヤ通りが、19世紀からの目抜き通りであり、現在でも繁
                 華街となっている。トヴェルスカヤ通りはその先で、レニングラード街道と名を変え、サンクトペテ
                 ルブルクまで延びている。
                  クレムリンから西へと伸びるアルバート通りは歩行者天国とのこと、商店や土産物屋が立ち並ぶ観
                 光客の多い街とのことだ。こちら側南西には、モスクワ川に沿って、これから訪ねる「ノヴォデヴィ
                 チ女子修道院」や「救世主ハリストス大聖堂」が見えた。

                  ノヴォデヴィチ女子修道院
                  予定にはなかったが、眼下に見たモスクワ川に馬蹄形に囲まれた広大な公園の河畔に立つノヴォデ
                 ヴィチ女子修道院を見た。モスクワにある正教会の修道院の中でも、有名な修道院の1つ、世界遺産
                 にも登録されている。
                  ここの最も重要な建造物は、1524年から1525年にかけて建設されたスモレンスキーの生神女大聖
                 堂で、6本の柱と5つのドーム屋根によって構成されている。ロシア建築に特有の中央の切妻屋根
                 は、イワン4世の時代に建設された。
                  このロシア正教の修道院は、モスクワ大公・ヴァシーリー3世の命によって創建され、ロシアでも
                 まれな貴族の女性専用の修道院である。ここでは、未亡人や後継者を産めなかった女性が、修道
                 女として神に捧げる人生を送っていたのである。
                  17世紀、モスクワ大公の娘ソフィアは、美しく静寂に包まれたノヴォデヴィチに魅せられ、ここ
                 を憩いの場として愛し、多額の寄付をして敷地内に教会や鐘楼を増設したのであった。しかしソフィ
                 アは異母兄弟ピョートル1世との権力闘争の末、皮肉な事に、自分が整備した修道院の見張り塔に9
                 年間も幽閉され、その後強制的に修道女にされてここで生涯を終えた悲哀の場ともなった。
                  白壁が高くそびえ、彩色された玉葱屋根の清麗なスモレンスキー聖堂が目立って美しい。
                  また、この修道院は、ロシア王家やボヤール( Boyar、10世紀から17世紀にかけての貴族のことを
                 指す)出身の貴婦人たちを多く匿まったことで有名である。修道女となった女性で著名な者では、フ
                 ョードル1世の妻イリナ・ゴドゥノヴァ、ピョートル1世の姉妹ソフィア・アレクセーエヴナ、そして、
                 ピョートル1世の最初の妻エヴドキヤ・ロプーヒナである。
                  当時修道院は、要塞の役割をも果たしていた。モスクワ川の湾曲部に位置するこの修道院も同じ役
                 割を要しており、一時期、ポーランド軍に占領されたこともあるが、再びロシアの手に戻ってから、
                 1616年には修道院を護衛するために、100人の護衛兵が配備され、以降増強されて 17世紀末には
                 、36の村を保有する大地主となっている。
 
                  ソ連時代の1922年、ボリシェヴィキ政権は修道院の閉鎖を決定し(大聖堂の閉鎖は1929年)、ここ
                 を女性解放博物館に転用、改築の後、1934年には国立歴史博物館とした。修道院内部の多くの建
                 物もアパートに転用され、これにより建物は建て替えや破壊を免れたともいわれる。
                  1943年、ヨシフ・スターリンがロシア正教会に対する宗教政策を緩和し、修道院内にモスクワ神学
                 専門学校が開設された。さらに1945年、ソビエト政権は、信者のために大聖堂の返還を決定した。そ
                 してソ連崩壊後の1994年、修道院での修道女達の生活が復活したのであった。
                  ソ連時代に宗教弾圧の一環としてソ連政府に接収された修道院は、一部の聖堂・建築物の教会へ
                 の返還が順次進められてきたが、2010年01月ロシア連邦政府が修道院を全面的に教会に返還する
                 事を決定し、元の歴史の道に戻ったのである。

                  ノヴォデヴィチ修道院がクレムリンの出城としての役割も担っていたことに由来してか、修道院の
                 南側に隣接している「ノヴォデヴィチ墓地」には、ロシアにまつわる著名な人物が多数埋葬されてい
                 る。
                  たとえば、政治家では、ニキータ・フルシチョフ夫妻、アンドレイ・グロムイコ(ソ連時代の外相)、ボ
                 リス・エリツィン(ロシア連邦初代大統領)、ヴャチェスラフ・モロトフ(スターリン時代にソ連の外交を
                 指揮した政治家)、ニコライ・ブルガーニン (日ソ共同宣言に署名した戦後のソ連首相)、アナスタス
                 ・ミコヤンなど、      
                  作家・詩人では、アントン・チェーホフ、ニコライ・ゴーゴリ、イワン・ツルゲーネフ、
                  そして音楽家では、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ、セルゲイ・プロコフィエフなどである。
 
                  ここはまた、文士の描くゆかりの地でもあった。レフ・トルストイの『戦争と平和』では、主人公
                 のピエール(ピョートル)伯爵は修道院で処刑される予定であったし、『アンナ・カレーニナ』では
                 主人公格のコンスタンティンは、将来の妻となるキティが修道院の側の池でアイススケートしている
                 ところを見初めている。修道院の側の池は19世紀の間、モスクワにおいて、もっとも有名なスケート
                 リンクであり、トルストイも、修道院のそばで、アイススケートを楽しんでいたという。
                  私達は、城壁の外から修道院を眺めた。湖の辺を歩きながら、昨夜観たバレーの曲「白鳥の湖」を
                 書いたあのチャイコフスキーも、ここを散策しつつ、構想を練ったと言われていることを思った。

                  昼食を市内の「BRIX」というレストランで戴いた。
                  構えの質素な店であったが、増山さんの紹介によると店主セルギー氏は、ロシアではレストランの
                 経営で成功者として知られている人であるとのことだった。
                  メニューは、
                  マッシュルームクリームスープ
                  ポークメダリオン
                  バニラパンナコッタ
                  デザートのコーヒー であったが、ロシア料理が私に合わないのか、私の口にピンと来るものは無
                 かった。
                  早朝からの行動で、喉が渇き、同席を重ねていただいた佐藤氏と一緒にビールを飲んだ。
                   
                                                                      (風次郎)

             
              モスクワ河畔のノヴォデヴィチ修道院         公園で遊んでいたロシアの子供   


 

* 11.モスクワ観光―2―
* 『風次郎の世界旅』 トップページへ戻る
* 風次郎の『八ヶ岳山麓通信』へ