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風次郎の『八ヶ岳山麓通信』 No220

   
北八つ、天狗・根石・峰の松目・硫黄(2012.08)

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                                                     2012年8月26日
行く夏の終わりに(2)                                                          
                                                    風次郎
                                                  fuujiro3@jcom.home.ne.jp

                          ффффффффффффффффффффффффффффффф

                         夏の日


                        編笠山の右肩から、陽光がさしてくる山麓の朝に、
                        ゆっくりと、腰を屈めた老婆が土手伝いに歩いてくる。
                        街中から2キロの道だ。
                        彼女の日課はこの朝の時に畑に通うこと。
                        「おばさん、おはよう」
                        老婆はやや腰を上げ、立ち止まる。
                        「おはよう――。いい天気になりそうで良かったなーえ!」
                        日課に精を出すことが、嬉しくてたまらないような笑みを浮かべて、

                        雨さえ降らなければやってくる。
                        彼女の畑はカボチャにキャベツ、ネギにジャガイモ、モロコシにトマト等
                        皆どれも丹精が込められて生きがいい。
                        時々エンジンを響かせる耕運機や草刈機を扱う大人が来るが、跡取り息子なのだろう。
                        畑は美しく生きている生活を映しているよう――。

                         「丈夫で頑張ってていいね!」と讃えると、
                         「これしかやることがねえもんで――」と交わされた。
                        自然の中に生き、卆寿を遂げた年輪を感じさせる、
                        拝みたくなる屈託の無いその表情。
                        朝の出会いが尊く――。

                                             ○

                        庭先に立てたパラソルの、
                        日影の移動に合わせて場所を変え、真昼のコーヒーを楽しむ。
                        簡易チェアーにもたれて捲る画集のページを掠めて、
                        熱いコーヒーの香の脇を、微かに昼の風が抜けて行く。
                        風の行く先に私の畑があり、
                        やせたまま立ち、それでも少しの実をつけたトウモロコシの穂が揺れていた。
                        その向こうには、大きくなったモクレンの木の濃い緑が強い陽を受けて立ち、
                        彼方に、続く西山の山なみ、そして青空。

                        昔集めた画集から、セザンヌが故郷プロバンスで描いたサント・ヴィクトワール山
                        をしばし眺めていた。
                        彼にとって身近な山、
                        人は身近なものに惹かれる。
                        それが振り返るもののある人生だ。

                        私にもこの古里がある。と――、
                        私なら、その中に入って行く。と、―――、

                        西山の上の空から、天を跨いで東に眼を転ずれば、
                        八ヶ岳は白く聳り立つような入道雲を背後にしていた。
                        暑いから、シャツを脱ぎ捨てて膚を風に晒し、
                        まだ暫しここで過そうと、コーヒーカップに手をやる。
                        晴れて、――
                        時の移りはとても静か――。                                        

                                          ○

                        静けさを聴くなら身近な山で叶う。と、
                        夏草を掻き分け、木々の間を通り抜けて進む。
                        小さな谷もある山の中では、里の音は消えて。
                        チョロチョロと流れるセセラギの音を聞きつければ、
                        そこに静寂の世界を見つけることが出来る。

                        静寂は感じ浸ることが肝要――と、
                        僅かな崖を降り、流れの冷たさを味わうことも欠かせない。
                        平らかな石を探して腰を下ろせば、
                        眺める先に、おそらくは鹿の家族が通るのであろう獣道(ケモノミチ)が見える。
                        この場は、私にとって寛ぎでしか無いのに、
                        脳裏に生命を繋ぐために通う動物の姿が過(ヨ)ぎる。
                        何故だろう。
                        否定しなければ、何事も厳粛。
                        厳粛は美。
                        深山に白馬を夢見た東山魁夷を思って座る。
                        「鹿の家族は何頭で水を飲むのだろう――」などと私は当ても無い。

                        ポケットの音楽ファイルに手をやって、モーツアルトを流してみる。
                        この曲を東山魁夷も好んだと言う。
                        山中、夕暮れのモーツアルトもまた佳い。

                        流れの音にはバッハだって合う筈だ、と逆らってみたくなる。

                        時が流れる。
                        だけどまだ、細い陽の光が届いている山中――。
 
                                                                             (風次郎)
 
            


   
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